足尾銅山見学後、翌日は中禅寺湖、日光東照宮を見学した。
2021-05-18(火)奥日光 中禅寺湖~湯ノ湖
中禅寺湖、湯ノ湖はそれぞれ男体山、三岳火山の噴火によってつくられた堰止湖である。
湯ノ湖の南端には高さ70mの湯滝があり、”湯”の名前の通り、あたりには温泉独特の硫黄のにおいがしている。自然が造りだした「ロックフィルダム」の景観が美しい。
湯ノ湖の南端、湯滝の入口を臨む
湯ノ湖に端を発する湯川は湯滝を流れ落ちた後、戦場ヶ原の湿原を緩やかに流れ、竜頭の滝を下って中禅寺湖に至る。
▼戦場ヶ原
▼竜頭の滝
▼華厳の滝
中禅寺湖からは落差97mの華厳の滝が流れ落ちている。宿の方の話によると華厳の滝のエリアは霧が発生しやすく、なかなかきれいに見えるチャンスが少ないとのこと。前日も当日もあいにくの曇りの天気で、滝の全貌を見ることができなかった。
前日の5/17、霧の合間から見えた写真がこちら。
白糸の滝と同じように、中禅寺湖の伏流水が中段部分からも流れ落ちていることがわかる。
2021-05-18(火)日光東照宮
奥日光周辺を散策した後、深い霧が立ち込める「いろは坂」を下り、日光東照宮に向かった。標高1270mの中禅寺湖は曇り空だったが、日光市まで下ると雨だった。
日光東照宮
以下ブラタモリの足跡に沿って東照宮を鑑賞する・・・。
家康の遺言
「遺体は久能山に埋葬し、増上寺で葬儀を行い、位牌は三河国の大樹寺に置き、一周忌が過ぎてから、日光山に小さいお堂を建てて祀りなさい。さすれば関八州の鎮守になろう」
そこで、1617年(元和3年)、2代秀忠は遺言に従って控え目の「世良田東照宮」を建てたが、1636年(寛永13年)、3代家光はそれを群馬県太田市に移築してしまい、遺言に逆らって豪華絢爛に建て替えた。その背景は「徳川家の権威を全国に知らせるため、家康公を神として祀るため。」
▼石鳥居手前の10段の石段は、登るごとに横幅が狭まっている。これは敷地の広さの制約のなか、遠近法を用いて幽玄さ(奥行き)を演出するために取られた工夫。
▼石鳥居は九州の筑前藩主の黒田長政が、九州から海路、利根川、鹿沼街道を経て運び寄進したもの
▼日光東照宮境内に入ると右手に金色の上神庫(かみじんこ)という宝物殿があり、その屋根の下の象の彫刻に目が止る。当時の日本に象を見たことがある人はおらず、下絵を担当した狩野探幽も想像で書いたと言われている。
▼上神庫の対面には地味な造りの神厩舎(しんきゅうしゃ)がある。人の一生を表す猿の彫刻があり、特に教育論(または日光東照宮の基本理念)を示すと推定される三猿が有名。
▼お馴染み「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿(さんざる)」
「物心つく頃には悪いことを見たり聞いたり話したりせず(させず)、素直な心のまま成長せよ(させよ)」という願い(教え)を表している。と同時に質素さが心に残るようにとの仕掛け。
▼日光東照宮の中心である本社手前の陽明門
建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。
▼陽明門の左右にある袖塀の透かし彫りも見事
▼日光東照宮本社の正門が唐門。中国の伝説の皇帝・舜帝を多くの人々が囲む彫刻の絵柄は、神の命を受け多くの人に慕われる徳川家康を暗示している。
東照宮の屋根は黒漆が塗られた銅板屋根で、素材は足尾銅山のもの。当初は檜皮葺で葺かれていたが、火事で危うく東照宮を焼失するところであったことから,承応3年(1654年)に全て銅瓦に葺き替えられたようだ。(参考URL:http://www.kinzoku-yane.or.jp/chronicle/number-11/index.html)
▼坂下門の東西廻廊にある左甚五郎作の彫刻「眠り猫」。目はつむっているが姿勢は戦闘態勢となっている。これは平和の時代にあっても、いつでも人々を守るために戦う決意を示し、徳川家康を暗示している。
▼眠り猫の下をくぐり抜け、家康の眠る奥社に向かう207段の階段を登る。階段の一段一段は1枚の岩で出来ていて継ぎ目がない。
▼家康が眠る墓所
修学旅行の団体以外、観光客はまばらで、雨の中ではあったがゆっくりと見学することができた。
見学前は、東照宮といえばタモリが言う通り「キンキラキ―ン」だけのイメージだったが、当時の最先端の芸術家たちが総力を結集して造った豪華絢爛な造営技術と精巧な彫刻に圧倒されるとともに、それゆえに東照宮は時代を越えた世界の観光スポットであることが実感できた。
2021-05-19(水)那須高原
巡検最終日は那須高原。当日は雨や霧の天気で、那須御用邸近くの平成の森の散策はあきらめ、これもブラタモリが訪れた、那須岳に近い南ヶ丘牧場に向かった。
南ヶ丘牧場
南ヶ丘牧場は那須連山の火山活動・山体崩壊により、大量の安山岩が流れでた土地。昭和23年、旧満州から帰還した人たちが、那須一帯に残された土地を手に入れ開拓を始めたが、標高が高いことから耕作は難しく、酪農の選択となった。当時、近くに温泉地(湯治場)があったが娯楽がなかったので、牧場を見物に来る人が現れ、食事や乳製品の提供などの観光開発が始まった。
▼牧場内では乗馬、動物とのふれあい、釣りなどが楽しめる。
▼アーチェリーに挑戦
那須与一の的に当てると賞品としてアイスクリームが貰えるということで矢を放ったが、残念ながら的から5㎝下でした・・・。
那須疏水
旅の最後に那須疏水を訪ね帰路についた。那須疏水の近くに蛇尾川(さびがわ)があるが、川には水が流れていない。じつはこの川は地下7mに水が流れ、雨の時にだけ水流が地表に現れる。これは扇状地川の大きな特徴で、扇状地の那須野が原には農業用用水を供給する疎水が必須だった。この疎水により那須塩原の43000ha(約21㎞四方の面積)の土地が潤っている。
参考URL:https://sosuinosato.com/?page_id=287
まとめ
5月なのに日本列島は早くも梅雨入りし、旅の3日間は晴れの天気に恵まれなかったが、幸い足尾銅山や奥日光では視界もよくその全貌を感じ取ることができた。最終日は雨が強くなり霧も出て、那須疎水が潤す那須塩原の広さを実感できずに残念だったが、田植え前の水を貯めた水田を見ると、明治時代、那須野原を豊潤な大地に変えようとした先人たちの並々ならぬ努力や意思を汲み取ることができた。
しかし、その開墾・開拓された水田も、時代の変化で耕作放棄地になっているところも多く、食の危機管理として「米は国内自給する」という理念や政策ないと、先人たちの膨大な努力や歴史が無に帰してしまうという虚しさを感じた。
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