柿の収穫がひと段落し、8日は全国的に快晴の天気予報だったので、懸案の碓氷峠越をした。
碓氷峠越は、「木曽のかけはし」(長野県上松町)、「太田の渡し」(岐阜県美濃加茂市)とともに、中山道三大難所のひとつとして知られている。これまで鳥居峠、和田峠などの峠を越えてきたが、今回がもっとも大変だろうと心して峠に向かった。しかし、坂本宿(460m)から「碓氷坂の関所(標高750m)までは、ちょうど笠松登山のような急登で、そこそこきついアルバイトだったが、それ以降は山の尾根伝いに比較的緩やかな勾配の道が整備されており、かえって下諏訪からの和田峠越えのほうが大変だったように感じた。
とはいえ、一般のハイカーにとっては坂本宿からの登りはやはりたいへんなので、下りコースで街道歩きをする人が多く外国人パーティーにも何組も出会った。軽井沢の街も外国人観光客が多く、まるで原宿のようで閉口した。人が多いとゆっくり休めない質なので自然と歩くペースも上がり、ヤマレコのコースタイムは「とても速い」となってしまった。
中山道ウォーキング
▼朝、6:50分に富士見を出発。8:50に横川駅近くの駐車場に車を止めてウォーキング開始。
▼坂本宿からの刎石山(はねいし山)。中山道はこの山の右手(東)を遠巻きに高度を上げていく。
▼刎石坂(はねいし坂)の火山岩(安山岩)の柱状節理
▼「覗」(730m)から坂本宿を望む
▼山の尾根筋に沿って比較的緩やかな勾配の道が整備されている
▼12:15 碓氷峠見晴台
▼見晴台からの浅間山
▼軽井沢に続く中山道の紅葉(旧碓氷峠遊覧歩道)
▼13:30 旧軽井沢着。街の中は外人観光客でいっぱい。軽井沢駅行きのバスに乗り込む観光客
めがね橋(碓氷第三橋梁)
軽井沢駅からJRバスで横川駅まで戻り、続いてめがね橋の見学に向かった。めがね橋は碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、国鉄信越本線横川駅 – 軽井沢駅間のアプト式鉄道時代に使われた。
明治25年竣工。長さ87.7m。200万個以上のレンガを使って造られている。
旧軌道は「アプトの道」として遊歩道になっている。
昭和38年に信越線の新線が建設されアプト式鉄道は廃止された。めがね橋から信越線の橋梁が見える。これも長野新幹線の開通に伴い廃止された。
中山道とめがね橋を見て感じたことは「江戸」、「明治」、「平成」のスピード感の差
江戸時代までの中山道は東山道の延長。変化のスピードは人馬のペース。一方、明治時代は蒸気機関、電気の時代。明治維新から約20年余りで日本全国に鉄道網が整備されたことを考えると当時の開発スピードに驚かされる。翻って今から約20年前の2000年から現在までの日本の変化はどうだろうか。スマホの普及でネットサービス等の変化は著しいが、日本が抱えている少子高齢化問題や、情報化時代にふさわしい教育とか産業振興は無策で経済は停滞している。良かれ悪しかれ明治という時代は、列強の脅威の中で維新を演出した若者がスピード感をもって欧米化を推進した。しかし現在は5公5民と揶揄されるほどの税金を集めながら未来を見据えた投資もない。この国の政治家はまさに茹でガエル状態だ。火傷するほど熱い状態にならいと政治も国民も変わらないのかもしれない。中山道の往時を偲ぶよりも日本の政治家の資質の問題を考えざるを得なかった・・・。
参考資料:
歴史の道中山道碓氷峠越 整備に伴う調査報告書(群馬県安中市教育委員会資料)
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