毎年7月の七夕の頃は梅雨の最盛期で日本列島は大雨に見舞われる。熱海市では、6/30からの7/3の間に降った雨が、平年の7月1ヶ月の雨量の1.6倍の389㎜となり、死者7名、行方不明者27名(7/7時点)を出す大きな土石流災害が発生した。この時期、日本列島に発生する線状降水帯は、各地に大きな水害をもたらすので要注意である。
そんな梅雨の最中ではあったが、三重県湯の山温泉の宿が予約できたので、お伊勢参りに行くことにした。私自身伊勢神宮が祀る皇室の祖先「天照大神」対して信仰心があるわけではないが、江戸時代から続く「一生に一度はお伊勢参り」といわれるお伊勢さんとはどんなものか、一度参詣してみようと思ったしだいである。
7月6日(火)くもり 伊勢神宮~松坂城跡・本居宣長記念館
昨日まで降り続いていた雨も梅雨前線が若干北上したので、当日伊勢地方は曇りとなった。飯田を8時前に出発して伊勢神宮外宮には11時前に着いた。伊勢神宮は宇治山田にある外宮と、宇治の五十鈴川のほとりにある内宮からなる。お参りはまず外宮からするのが習わしだそうだ。
伊勢神宮外宮
外宮は衣食住を始め産業の守り神である
▼外宮北御門より神社に入る
境内には樹齢数百年の広葉樹、針葉樹が茂っている。伊勢神宮のHPを見ると、境内にパワースポットと呼ばれものははないそうだが、大樹を見ると人は誰もその大きさと生命力に畏敬の念を感じるのだろう。若い参拝客が樹に触れ願をかけているようだったが、その気持ちもわかる気がする。
▼外宮 御正宮
伊勢神宮内宮
外宮参詣後、車で内宮に移動。コロナ禍の平日なので駐車場も空いている。駐車場の前は五十鈴川にかかる宇治橋である。ブラタモリによると、伊勢神宮には毎年800万の参拝者があるそうで、遷宮の間の20年間で橋の表面の木が最大10cmもすり減るという。
▼五十鈴川の清流でお清めをする
▼⾵⽇祈宮
途中、五十鈴川に流れ込む支流、島路川を渡り、風雨を司る神をお祀りする「⾵⽇祈宮」をお参りした。
伊勢神宮の式年遷宮では境内のすべての建物が更新されるので、遷宮のための敷地が隣接している。
木造構造物からなる伊勢神宮の式年遷宮は大変な作業で、遷宮に使われる木材も1万本以上と大量である。木材は地元ではまかなえないために美濃や木曽等から調達してきたようだが、大正以降は五十鈴川流域に植林を行い200年計画で材料を自給自足できるようにしているとのこと。
ご用材を引き入れる行事「御木曳(おきひき)」は550年以上続いていて、氏子が大木を曳航し社殿を建てていく様は、諏訪の御柱と全く同じだ。しかし社殿から橋梁からすべてを新しく造営する伊勢神宮の式年遷宮は、膨大な作業・労力が必要でその規模は御柱の比でははない。「遷宮周期はなぜ20年なのか」という問いに答えはないようだが、技術の伝承と準備期間のバランスで決めらたのではないかと想像した。
▼正宮
階段前の杉の大木には竹が巻かれている。
伊勢神宮のHPによると「参拝の記念に杉の皮を持って帰る人がいるのでその対策」とのこと。
▼本宮前の階段
階段は青緑色の大きな岩でできている。五十鈴川で採れた石を使っているのだろうか? 高い圧力を受けてできたであろうと思われる縞模様がきれいだったので写真を撮ったところ、「階段以降はすべて写真禁止」と警備員に注意された。「申し訳ない」とあやまり、「実はこの階段の石が特徴的だったので写真を撮った」ことを説明すると、「式年遷宮で造った階段で三波石でできており、群馬県から運んできたものと聞いている」と説明してくれた。なるほど! やはりこれは三波川変成帯の結晶片岩だと合点した。
家に戻ってググってみると、群馬県藤岡市の株式会社ふじしげが施工したようだ。式年遷宮は全国から職人を集めて行われるのだろう・・・。
おはらい町
参拝を終えたのち、遅い昼食をとるために内宮隣の「おはらい町」へ向かった。
戦後、観光バスによる参拝が一般化されると、観光客はお伊勢参りの後そさくさと近くの鳥羽などの観光地に向かってしまうので、おはらい町は「日本一滞在時間が短い観光地」と揶揄されることもあった。そこで、61回目の式年遷宮を期に、まちなみ保全事業として江戸時代の建築様式に整えたところ、20万人まで減った観光客が、今は500万人に回復したとのことだ。(ブラタモリ)
御幸通り
明治4年、世襲の一族(御師)が神道に利権を持つことを明治政府が嫌ったため、御師制度は廃止となる。その結果参拝客が減っってしまうが、明治43年、明治天皇の参拝を機に御幸(みゆき)道路が整備され、伊勢参拝が再度活性化された。内宮の前の国道23号の道路標識に「終点」と添えられているが、実は戦前はここが国道1号線の終点だったそうだ。(ブラタモリより)
▼四日市から70.9㎞ポストに立つ終点標識
伊勢に1軒だけ残る「御師」
伊勢外宮周辺には、最盛期800軒の御師がいたが、現在は江戸初期から活躍した御師「旧御師 丸岡宗太夫邸」1軒のみが当時の面影を残しているだけである。丸岡宗太夫邸はまちかど博物館として公開されているようなので、見学できるか電話したところ、あいにく当日は予定があり公開できないとのこと。「外観だけでもみてください」とのことだったので丸岡邸を外から見学した。
母屋、長屋門、築地塀は国の登録有形文化財だそうだ。
松坂城跡・本居宣長記念館
お伊勢参りを終え宇治山田から湯の山温泉に向かう予定だったが、まだ時間があったので、松坂城跡にある本居宣長記念館に立ち寄った。
国学者 本居宣長 享保15年(1730)~享和元年(1801)
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。木綿商の家に生まれ、23歳の時に京都で医学を学び医者となる。医業の傍ら自宅の「鈴屋」にて門人を集め『源氏物語』など日本古典を講義した。賀茂真淵に師事し日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆した。
宣長は、日本人は本来どんな物の考え方をしたのかを知ろうと古い書物を手掛かりに研究した。とくに源氏物語から平安時代の人々の考えを知ろうとし、源氏物語の本質が「もののあはれ」にあり,自然や人事にふれて発する感動・情感を書き表すことは人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
▼大日本天下四海画図
宣長が17歳の時に書き始めた日本地図。当時出回っていた地図はどれも間違いが多く、宿場の詳細も書かれていないので、正しく詳しい地図を描こうとしたようだ。文献と照らし合わせ、修正しながら完成させた地図は、地名や宿場間の距離が細かく綿密に書き込まれていて驚く。
・駿河、遠江、三河周辺
・江戸時代、宍原は獅子原だったのかな?? 興津も沖津になっている。
中仙道「馬籠」も「麻古女」になっているが当て字??
私の中での本居宣長は日本史の教科書にでてきた”一単語”に過ぎなかったが、記念館を訪れて少し興味がわいてきた。宣長は若年より伊勢神宮参拝を度々行っており、宣長の思想形成や古事記の研究・解釈という学問にも影響を与えたに違いない。日本人の心の中には仏教と神代(神話)が混在しているわけだが、日本人のオリジナリティー、思想のルーツは本当にはどこにあるのか、伊勢神宮を日常的に感じられる松阪に生まれ育っているがゆえに、その疑問は若いころから彼の心の中で育まれていただろう。44巻の古事記伝を読む気にはなれないが、ちょっとした解説本はひも解いてみようと思う。
▼御城番屋敷
松坂城の隣には、松坂御城番が居住した現存する組屋敷(長屋)がある。ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されている。2004年12月10日付けで「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されている。
今日は蒸し暑い中をあちこち6㎞以上も歩き回ったのでかなり疲れたが、念願?のお伊勢参りは無事に終了。神代の時代にちょっと引き込まれる旅となった。。。
参考URL
【ブラタモリ伊勢神宮】全内容・ルートを写真でまとめと要約! #40 41
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