ホームページをリニューアルしました。旧HPはこちら
旅の記録 歳時記

姫路城~城崎温泉 その3 (郷村断層・天橋立・舞鶴港)

今回の旅の最終日は、丹後半島の付けねにある郷村断層を見学後、天橋立を回り、最後に終戦の引揚舞台となった舞鶴港に立ち寄るルート。

2021/10/14 郷村断層

郷村断層<パンフレットの説明より抜粋>

1927年(昭和2年)3月7日午後6時27分、丹後地方を大地震(推定マグニチュード7.3)が襲い、丹後地方は、多数の死者、全壊全焼家屋も膨大な数にのぼる大被害を受けた。
地震の際、網野から峰山に向かって延長13キロメートル(郷村断層)、岩滝から野田川に向かって延長5キロメートル(山田断層)の断層が生じた。垂直及び水平のズレが顕著であり、地層運動により花崗岩を切断し、岩盤に鏡肌や擦痕をつくっていることから、大変珍しく、学問的にも貴重なものとされた。郷村断層では日本で初めて近代的な科学的調査が行われ、その際「活断層」という言葉が初めて使われた。昭和4年12月に当時の村名をとり、「郷村断層」として、国の天然記念物に指定された。

郷村断層と共役的に山田断層が出現した。
<地図クリックで地震本部HPへ>

▼樋口地区の断層の保存展示

▼小池地区の断層

西側隆起を伴う左ずれ断層 最大260㎝のずれを生じた

断層のライン上には多くの民家が立ち並んでいる。地震は大丈夫なのだろうかと思ったが、京都市のレッドブック情報によると、「この断層の活動再来周期は、垂直変位速度と地震変位量から約1万年程度と推定されている。」ということなので、これから数百年は問題がないのだろう・・・。

天橋立

続いて丹後半島を横切り天橋立に向かった。宮津湾にある天橋立は、松島、宮島とともに日本三景の一つに数えられる景勝地。全長約3.6kmの砂州に約6000本もの松並木が続いている。

▼お決まりのコースで天橋立を展望できるビューランドへリフトで登る。リフトの隣はケーブルカー。

▼定番の股のぞき
股を覗いて眺めることで天地が逆転し、まるで松林が天にかかるような景色に見えることから広まったそうだ。

▼天橋立の成り立ち
丹後半島の東側の河川から流出した砂礫が海流(下の図の赤色の線)に運ばれ、野田川の流れからくる阿蘇海の海流(下の図の黄色の線)とが、ぶつかったことにより、府中側より砂礫が海中に堆積しできたものといわれている。

さすがに日本三景の一つだけあって、今まで回ってきた見学スポットに比べて人が多く、客層もきゃぴきゃぴした若者が目立つ。コロナ禍でなければもっと喧噪な観光地だろう。

しばらく砂州に降りて海を眺めた後、最後の訪問先、舞鶴港に向かった。
天橋立から国道178号線で京丹後鉄道沿いに車を走らせる。すると途中、由良川にかかるきれいな橋梁があり、鉄道おたくと思われる人たちがカメラを据えている。あとで調べてみると由良川橋梁は有名な撮影スポットのようだ。

▼由良川橋梁(検索記事より拝借した写真)

舞鶴港

Wikipediaより抜粋
舞鶴港は古来より北前船の寄港地とも知られ、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。明治時代に日本海側唯一の海軍鎮守府が開府し、軍港として発展した。日露戦争の際、そのほとんどの船がここから出港した。戦後はシベリア抑留等からの引き揚げの際も多数の船が舞鶴港に帰港している。

現在は大きく2つの港に分れており、東港が海上自衛隊舞鶴地方総監部が鎮座する軍港として、また市内最大規模の事業所でもある造船所・ガラス工場が面した工業港、近畿圏と北海道を結ぶ長距離フェリー客港としても機能し、西港は海上保安庁の海上警備の拠点港として、また中国、韓国、ロシアへの国際貿易港として機能、発展している。

舞鶴の赤レンガ博物館の前に駐車をして東港を散策する。海上自衛隊の船が何隻も停留していた。

▼船体に記された181の番号から、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」であることがわかる

▼掃海艇すがしま

▼赤レンガ倉庫群

1901年(明治34年)に舞鶴の地に舞鶴鎮守府が創設され、明治・大正時代を通じて旧日本海軍によって建てられた赤煉瓦造りの建築物。

倉庫内にはイベントホールや、みやげ屋などがある。

▼倉庫内で企画展示されている昭和初期の港の軍機海図

▼司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の一人、連合艦隊参謀の秋山真之の書。
日露戦争の日本海海戦における連合艦隊司令長官、東郷平八郎の言葉を記している。
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

引揚記念公園

舞鶴港を散策後、「岸壁の母」の歌の舞台となった舞鶴引揚桟橋を見下ろすことができる「引揚記念公園」に向かった。展望広場には当地と深いかかわりのある「異国の丘」「岸壁の母」の歌詞を刻んだ歌碑などある。

▼舞鶴引揚桟橋・援護局跡地を望む
跡地はベニヤ製材の工場になっており、木材製造の煙が周囲に立ち込めているのがちょっと残念だった。

公園には、戦争中、各地に派遣されてた戦隊の仲間たちが、「二度と悲惨な戦争を起こさないように」と祈りをこめた桜がたくさん植樹されていた。春にはきれいな桜並木になるのだろう。

まとめ
3日間の旅は瞬く間に過ぎた。観光客が少ない姫路城はゆっくり見学することができたものの、事前学習不足でブログを書いてみて初めて勉強することがたくさんあった。初めての旅行で何もかも理解するのは不可能だが、あらかじめ紀行文の構成を考えながら下調べをすると、旅の要諦を抑えることができるかもしれないと思った。いずれにしても、各地の風景や文化を脳裏に刻むには、ひとつの観光スポットに最低1日は滞在する必要がある。今後は、まだ訪れたことのないジオサイトを中心にさらにゆっくりした旅を計画したいと思う。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました