エスバードの6月の個人カレンダーを見たところ、6月5日~6月11日まで連休となっている。この時期は甲信越では梅雨入りだが、北海道はまだ天気も良いだろうから、この連休を利用して機会があれば登りたいと思っていた日本最北端にある百名山「利尻山」の登山にチャレンジすることにした。
6月5日(月) 飯田から稚内へ移動
飯田から松本空港まで車で行き、飛行機(FDA)で新千歳空港に移動。空港でレンタカーを借りて、道央道とオロロンライン(国道232号)経由で稚内まで約350キロの道のりを走った。北海道の道路はまっすぐで信号も少なく、80キロ位のスピードで走れるので長距離運転もさほど苦ではない。途中サロベツ原野や稚内の「夕日が丘」から、利尻山の勇姿が望めた。
▼飛行機から下北半島「尻屋埼」方面を望む。
▼稚内「夕日が丘」からの利尻島と礼文島
6月6日(火) 稚内周遊
当初の計画では午後のフェリーで利尻島に移動し麓でキャンプする予定だったが、明日の宗谷地方の天気が「曇り時々雨」と言う予報に変わったので、計画を変更し今日は稚内エリアを周遊した。
<稚内港北防波堤ドーム>
かつて樺太行きの船の桟橋を波から守るために建てられたドーム
<ノシャップ岬>
稚内の最西端、宗谷海峡に突き出す岬で利尻山や礼文が望める。「ノシャップ」とはアイヌ語で「岬がアゴのように突き出たところ」という意味だそうだ。
▼頂上が雲に覆われた利尻山が見える
▼岬には島根県日御碕灯台に次いで日本で2番目に高い灯台が立っている。
<JR稚内駅>
日本最北端の駅。かつてはここから樺太行きの船がでる稚内桟橋駅まで線路が延びていた。
<樺太記念館>
樺太(サハリン)は、もともとアイヌをはじめとした先住民族が住む土地であり、日本人やロシア人も雑居していいたが、日露戦争後の明治38年(1905)から40年間、北緯50度以南の「南樺太」が日本の領土となった。稚内は樺太行の発着港として賑わった。記念館には当時の様子が紹介されている。
樺太では産業政策として森林資源を利用したパルプ工業が興された。また樺太で産出される良質な石炭は王子製紙のパルプ工場の燃料として使われた。(政府と財閥の強いつながりがうかがえる)
▼大鵬と稚内
展示室に大鵬の写真があった。「彼は稚内出身だったけ?」と思いながら写真を眺めていると、記念館の方が大鵬と稚内のつながりを説明してくれた。
「大鵬はロシア人の父と日本人の母のハーフで樺太で生まれた。終戦で樺太から引き揚げ途中、船の中で母が具合が悪くなり稚内で下船したが、その後、乗っていた船はロシアの潜水艦に撃沈された。そのまま乗船していれば後の大鵬幸喜はなかったわけで、稚内は運命的な地」なのだそうだ。
<大沼>
越冬地への中継点として、またシベリアへ帰る休憩地として白鳥が飛来する大沼。大沼に面したログハウスづくりの大沼バードハウスには観察室が設けられている。
<白い道>
宗谷丘陵の中にある約3㎞にわたり稚内の名産である“ホタテ”の貝殻を砕いて敷き詰めてできた道。宗谷丘陵に向かって2㎞程歩いてみた。
<宗谷岬>
日本最北端の地。「日本最北端の地の碑」は、北緯45度31分22秒に位置する。北国のシンボル北極星の一稜をかたどった三角錐をデザインしたもの。
間宮林蔵の像の前には鹿が・・・
▼宗谷灯台
灯台からは視界は悪かったが、遠くに薄っすらとサハリンが確認できた
<宗谷丘陵>
約1万年前の氷河期に水の凍結と融解で出来た地形。今は一面、宗谷岬牧場による牧草地になっている。
<稚内公園の「樺太島民慰霊碑」>
「樺太島民慰霊碑」である『氷雪の門』は、雪と氷の中で厳しく生き抜き、そして敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を象徴する女性像。
説明記事は以下のHPを参考にした:
稚内観光情報
稚内の主な観光スポットを回ったのち、明後日の利尻登山用にスポーツ飲料などを買い求め、今日の宿に向かった。
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