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歳時記

近現代日本の村と政策―長野県下伊那地方1910~60年代

清中やの清助さんが「近現代日本の村と政策―長野県下伊那地方1910~60年代 」という本を持ってきた。著者の坂口 正彦氏は、飯田市の歴史研究所客員研究員として2008年~2011年に飯田市に滞在し、国家の農業政策が山村にどのように展開されたかを調査した。その際、清中やにある古文書などを参考にし、下久堅や南原を例に挙げながら山村の状況を本書に記述したことから、坂口氏がこの本を進呈してくれたとのこと。

これまで下久堅村の農業政策や飯田市と合併に至った経緯など、ほとんど知る機会がなかったが、この本を通じて、明治後期~昭和30年代までの歴史的背景や村の特質などを窺い知ることができた。以下、ポイントを列記する。

 

1、下伊那の特徴
下伊那における村は地理的な条件から3つのカテゴリに分けられる。

① 大地主が存在し組織化が進んだ村
松尾村、上郷村など竜西の村は平たん地であることから、比較的農業生産力もあり、経済的に上位の地主=名望家が村の代表となって集落をまとめ、行政村としての整備が進んだ。

② 回りがほとんどが山で、農業収入も少なく貧困な村・・・上久堅、清内路など
昭和恐慌期、山村の窮乏は著しく、清内路、上久堅、泰阜は県の介入により経済更生運動が執行された。その施策の一部が満州分村移民施策であった。
宮川注)従来の研究は農村の困窮を開拓団の最大の要因としているが、小林らは、満州移民の送出が経済状況によって規定されているというより、その地域の中心人物によって押し出された「バスの論理」によるとことが大きいと指摘している。

③ ①と②の中間の集落 ・・・下久堅等
下久堅を形成する部落は、その地理的特性から山、谷、川で隔てられて存在するため、村としての取り組みは各部落に利益となるかどうかが議論の焦点となり、村としてのまとまった施策を実行することが難しい。また地主も小規模であるため、松尾村のように大地主が村としての政策を主導する環境にない。さらに部落間の利害関係の図式は、部落内でも「常会間の利害関係」という形で現れる。常会もまた山、川、谷で隔てられているためである。

このように下伊那の農村の農業政策の判断、実行内容は、地理的要因に影響するところが大きい。以上から行政村としての機能成熟度を地域別に見ると 
 ①竜西 (松尾等)>> ③竜東(下久堅等)> ②山間村(上久堅等)
となっている。

2、1950-60年代の集落運営 当時の課題
1)昭和の市町村合併
昭和の市町村合併で長野県の意向を受けて飯田市は、「市田、座光寺、上郷、鼎、伊賀良、松尾、竜丘、川路」に合併を呼びかけ、1954年に天竜川西岸の”田園都市計画”が提案された。
・しかし上郷、鼎は、飯田大火の復旧費用の税負担を懸念し反対。いっぽう松尾村は補助金・起債を使って中学校建設などの公共事業の推進を望み、合併に賛成した。
・下久堅は上久堅とではなく、財政状況の良い松尾村との合併を望んでいたので、飯田市の合併対象となり、1956年9月に7村の合併が実現した。

2)飯田市の「新都市建設計画」…5か年計画14.4憶円 (1958年)
・中央道の開設など「長期的な問題」に対応した計画
「中部日本全域を経済圏としてその中の一大都市としての拠点になることが約束付けられており、その受入れ体制を着実に整備しなければならない・・・」 
⇒ 道路整備が市政の大きな課題であることが挙げられた。

3)第一次農業構造改善事業※1
農業基本法(1961年)により農業の近代化による農業所得増大施策の推進
・基幹作物(果樹、養蚕、酪農)の土地基盤整備(1区画30a)、近代化施設導入などを同時に行うことが要請された。

※1 参考URL:
https://www.jstage.jst.go.jp/article/arfe1965/20/2/20_2_49/_pdf
https://www.maff.go.jp/j/study/attach/pdf/tochi_kentokai-7.pdf

こうした時代的要請の中で、飯田市の喫緊の課題は2)の道路整備であった。そこで市役所が主導し、3)の農業政策の意図の組み換えを行い、第一次農業構造事業(補助金)を使って道路整備の改善を推進する。すなわち農村部のインフラ整備を農道整備の名目で解決するという施策が、各部落へ提案された。

3、南原の状況と農業構造改善事業への反応
・総世帯数:112 うち農家世帯89 (1959年)
 3~6反の世帯が多数。最大でも18反

・農業生産の内訳
 養蚕 93 360ha 781万円
 水稲 87  16ha 632万円
 乳牛 14  17頭 115万円
 豚  26  46頭 103万円

・年代構成 合計535人
 0-10代  67人
 10-20  95人
 20-30  62人
 30-40  86人
 40-50  67人
 50-60  62人
 60-70  52人
 70-80  34人
 80-   10人

常会における推進者、反対者
2常会に反対者が多かった。その理由は、1-2常会は県道、南原橋もあり、道路整備は切実な課題でない。また営農に重きをおく農家が少なく、農業近代化に関心を持ちにくいためと思われる。当初、構造改善に反対する者(※2)は少なくなかったが、構造改善の道路工事費用を、補助金90%、区費10%で賄うことを飯田市が提案、さらに南原区会では、その区費の半分を受益者負担とするならば、道路整備は日常生活改善に貢献するということで、区民・区会で構造改善が了承されることになった。

※2:県が提言する農業構造改革の”本来の趣旨”に沿った養蚕事業の合理化・拡大施策は、南原の地理的状況と農家の後継者不足の中では不可能という強い反対意見もあった。またその背景には、繭の出荷において、総合農協と養蚕農協という二つの組織的対立もあった。

4、まとめ
下久堅村は、地形的に山川で集落が分断されているため集落間の対立があり、近代化や組織化が進まなかった。その結果、村役場の官吏の規模も小さく、役場が主導したような改善運動はほとんどない。
村の地主は小規模地主がほとんどであったが、養蚕で一定の収益が得られたため、山間部の農村に比べて農家の困窮度はそうひどくなく、小作争議も少なかった。
有力者=経済的上位者が不在ということもあり、村長は輪番的に一期で交代するので、村としての長期計画や、戦後の農業改善活動を利用して農業の合理化を進めようとする取り組みもなく、また車時代の到来を見据えて村主導で道路整備を進めることもなかった。

こうした歴史や地理的な背景を知ると、他の地域に比べ下久堅の幹線道路整備が全く進んでいないことも理解できる。基本的に区会は市役所から、あるいはお上から降りてくる案件の賛成・反対を議論する場であって、自ら未来の生活改善を構想する自律性はない。

このような土地柄で退職後に農業をゼロベースで計画することは無謀である。現状把握とは、まずその土地の村史や歴史をしっかり勉強することだ痛感した。

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