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歳時記

2024-01-31 渋沢栄一記念館、富岡製糸場見学

中山道ウォークで埼玉県深谷市まできたので、今日は、当地出身の渋沢栄一のゆかりの地を巡った。(以下の説明は、ちょこたび埼玉のサイトを参考にした。)

1、中瀬河岸
渋沢栄一の生家がある「血洗島」の近くには、利根川の中瀬河岸がある。江戸時代、ここから上流は利根川の川底が浅くなるため下流から運んできた物資を小舟に積み替える場所として栄え、江戸の新しい情報、商品などがたくさん集まってきた。そのため栄一らは容易に当時の最新の情報や文化に触れることできた。

利根川の堤防から赤城山方面を望む

2、尾高惇忠生家
富岡製糸場の初代場長をつとめた尾高惇忠の生家。栄一翁の従兄であり、栄一の妻となる尾高千代の生家。幼少期の栄一は尾高惇忠に論語をはじめ四書五経を習い、惇忠から大きな影響を受けた。

左端にあるのは藍玉

3、鹿島神社・藍香尾高翁頌徳碑
旧下手計村の鎮守であり、境内には栄一翁らによって建てられた、尾高惇忠の人となりや業績を伝える藍香尾高翁頌徳碑が建っている。

4、渋沢栄一記念館
栄一翁ゆかりの写真や遺墨などの資料が展示されている。また講義室では栄一翁のアンドロイドによる「道徳経済合一性説」の講義(約8分)が聞ける。アンドロイドの製作費用は約1億円とのこと。深谷の出身でドトールコーヒーの鳥羽名誉会長が「私利私欲なく、当時必要な企業を全部作った大偉人」と渋沢栄一を敬っており、この製作費を寄付してくれたのこと。

アンドロイド講義内容・・・eiichi_android_koennaiyou
この講義を今の政治家が聞いて欲しいと思った。

5、旧渋沢邸「中の家」
栄一翁の生地。現存する主屋は妹夫妻が明治28年に建てたもので栄一翁が寝泊まりした部屋が残っている。
昨年耐震補強工事がなされ、蚕室であった2階も公開されいる。併せてアンドロイド渋沢翁による説明がある。

6、青淵由来之跡の碑
中の家の裏手の青淵公園には、栄一の雅号である「青淵」の由来となった碑がある。

公園の近くにはかつての養蚕農家の大きな家が何軒か建ち並んでいる。

7、諏訪神社
栄一が生まれた旧血洗島村の鎮守。拝殿は栄一が寄進した。

8、田島弥平旧宅
田島弥平による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物。(伊勢崎市HP 田島弥平旧宅

(参考:NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を今に伝える県境の魅力めぐり その2

 

9、富岡製糸場
最後に、藤岡市にある世界遺産・国宝「富岡製糸場」を見学した。富岡製糸場|観光見学情報
富岡製糸場は、明治5年(1872年)に明治政府が日本の近代化のために設立した模範製糸場。

= 渋沢栄一と 世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」より
幕末の開国から長い間、生糸は日本が外貨を取得するための主力輸出品目でした。生糸輸出が始まった頃は生糸の品質も良かったのですが、横浜で高値で売れるようになると品質の悪い生糸も出回るようになったため、信用が落ち、生糸の価格は下落してしまいました。このため、洋式器械製糸技術を導入して生糸の品質を向上させることが、国力を付けたい明治政府の緊急課題となりました。
そこで、明治政府が計画したのが洋式の繰糸器械を備えた官営模範工場の建設です。このとき、明治政府の大蔵省租税正(そぜいのかみ)であった栄一は、農家出身で養蚕に詳しかったことから富岡製糸場設置主任(※)に任命され、フランス人技師ポール・ブリュナを雇うことを決議するなど、富岡製糸場の建設を進めました。 ※設置主任は5名任命され、栄一はこのうちの1人。栄一のほかに中村祐興、玉乃世履、杉浦譲、尾高惇忠が任命されました。

官営工場として設立された富岡製糸場は、その後三井家に払い下げられ、最後は当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併される。そして富岡製糸場は片倉工業株式会社富岡工場として1987年まで操業した。
施設内の展示室には1976年当時の入社案内パンフレットがあり、そこには「就職してき社会人として働いて成長し、退職後は良き母となる」という従業員のライフステージのイラストが載っていた。高度経済成長時代の日本の工場の女性労働者は、結婚退職があたりまえの時代だったと懐かしく思った。

▼東置繭所入口

▼西置繭所

▼操糸所

操糸所の中では、繭から糸を紡ぐフランス式繰糸器による実演作業が行われていた。
(写真は富岡製糸場HPより転用)

富岡製糸場を見て、地元岡谷の蚕糸博物館も一度見学をしようと思った。

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